吉永 耕一
初めての北岳登山(1993.8)で厳しい自然環境に咲く高山植物の美しさに目を見張った。八本歯のコルを登った山頂東南斜面や、小太郎尾根分岐を下った草すべり周辺でカメラのシャッターを押し続けた。鳳凰三山のタカネビランジに驚嘆の声を上げた家族に北岳の花々を案内しようと当初計画してみた。
直前、義父の入院で一人北岳に向かうことになる。机で登山計画を練り直す。行き帰りの足に車を利用したいので、登山口と下山口を広河原にする。白峰三山縦走も魅力的だが、マイカー登山は難しい。今年は全くのトレーニング不足だし、欲張らず北岳の北、ひっそりとした小太郎山、北岳、間ノ岳を行き帰りする小縦走を考える。北岳の南北から山稜の景観を楽しみたい。俊介が同期日高校山岳部で隣の鳳凰三山へはいる。全くの同期間この甲斐駒、仙丈岳、北岳周辺で高校総体が開催される。山の情報誌に『混雑のため、なるだけ同山域への登山はご遠慮ください』と書かれている。お盆休みの後の比較的静かな登山を期待していたが、どうなるか。穂高などの他の山に登る手もあると練りに練る。結果的に初め考えていた北岳、そしてその小縦走となる。
第一日8月20日 標高差:720メートル
日の照り返す暑い午後一番、広河原小屋に登山届けを済ませ歩きはじめる。大樺沢二俣への道を左にわけて御池小屋への急登へかかる。三年前の雨の日、俊介と小走りにかけ降りた道を登る。あの時は年も考えず無理をして膝を痛めてしまった。また同じことをやらないようにと一抹の不安を抱きながら、でも直ぐ頭の中は空っぽになる。南アルプスらしいうっそうとした薄暗い樹林の急坂をじっくりゆっくり登る。外目には小太りおじさんが結構アゴを出しているはずだ。一度休みを取った後、二三のパーティを追い越したり、先にいってもらったりで、思いがけず急登がおわり早くもトラバース上の登山道になる。休憩していた山口の三田尻女子高のパーティに記念写真のシャッターを押してくれと頼まれる。このパーティは高校総体で登っているのではないらしい。
新しい御池小屋はふんだんに木を使ったログハウスらしいつくりだ。お盆をすぎて登山者も減り、一人一枚のふとんが利用できる。今回は自炊はあきらめ小屋に世話になる。一泊二食つきで6500円なり。小屋の外はテント場で、七、八張りはある。小屋どまりはほとんど中高年組みだ。夕食はカレーだけの簡単な料理だ。食事を目的で来た訳ではないので何もいうことはないが、いやにあっさりしている。食後戸外でコヒーを沸かして、暮れていく鳳凰三山、北岳を眺めながらリラックスして楽しんだ。バットレス第四尾根マッチ箱のコルが印象深い。
第二日8月21日 累積標高差:1039メートル
生卵の朝御飯をすませて5時過ぎに登りはじめる。草付の急登がはじまる。年上のおじさん、おばさんがどんどん登っていく。ダケカンバの樹林帯にはいり、左手前方のバットレスが目に飛び込んでくる。八本歯のコルから八本歯の頭までのギザギザ稜線は緩るそうだ。南アルプスの森林限界2600メートルを過ぎるあたりから樹林は無くなり(あたりまえか)這松と草付のジグザグ道でいつのまにか高度を獲得していく。今年は残念ながら草すべりは高山植物の開花時期を過ぎたようだ。
小太郎尾根にでると、稜線越えの風が心地よい。南の北岳はもちろん、西の仙丈岳、東の鳳凰三山、そして北は手前から小太郎山、アサヨ峰、甲斐駒、鋸岳が重なりあっている。涼風を顔にうけながら小太郎山にむかう。メイン・コースをはずれる小太郎山は道標もなく踏み跡をたどり、ちょっとしたヤブコギも楽しい。
小太郎山からグルリと回り見渡すと絶景かな、絶景かな。仙丈岳、アサヨ峰、その間の北沢。どれも手に届きそうな仙丈岳両わきのカール。懐かしい高嶺からの下りも間近かに見える。野呂川がぐるりと侵食し、渓谷空間を創造している。北岳はどうだ。小太郎尾根が振り向きかけた巨大な動物の背骨ようだ。南から見た鋭さは消え、なだらかな質量を感じさせる。
再び登り返す事約二時間半で標高3000メートルの肩の小屋にたどりつく。小屋の前は高校総体の選手、審査員、支援部隊で混雑している。取材のヘリも飛んでくる。さっきまでの小太郎山の静けさがうそのようだ。 軽い頭痛と疲れでバテバテだ。雑炊を作る気にもなれず、小屋のウドン(900円)を食べ、パック入りの牛乳(250円)を飲む。
第三日8月22日 累積標高差:480メートル
肩の小屋は頂上の北側直下だから結構寒い。二階で毛布三枚かけてもまだ寒くて目が覚める。4時過ぎに日の出を見に小屋の外にでる。東の空がほんの少し明るくなりはじめる。上空はまだ満天の星だ。フリースを着用しているが、少し風もあり寒くてじっとしているのも大変だ。それでも山岳写真家達が三脚を立てじっと日の出をまっている。5時をまわって空が明るくなってきた。鳳凰三山、富士山の墨絵がみえるが、まだお目当ての日輪はみえない。やがて鳳凰三山越えに水平線の薄雲の通して、赤い太陽が出現した。シャッターを立て続けに切る音がする。日輪に手を合わせる人々もいる。
小屋の朝食は5時半からで、昨日の小屋より一時間遅い。出発も一時間ずれて、北岳直下の登りにかかる。歩きはじめて直ぐの急斜面でなかなか調子がでない。高度感に惑わされてバランスもくずれそうになる。それでも要所要所のペンキ・マークに導かれて約半時間で山頂に達する。
360度の展望を満喫する。中でも、間ノ岳、農鳥岳、塩見岳、その背後の南アルプス南部の山やまのうねりに圧倒される。二度目の山頂に早々に別れを告げ、間の岳をめざす。頂上直下南側も少しスリリングな一般コースだ。振り返るとほとんど時間の経過もないのに、山頂は雲に被われている。なだらかな主稜線通りに北岳山荘の横を通過する。中白峰を過ぎた当たりから北岳をふりかえると、ガスも晴れすっきりした三角錐のピラミッダルな北岳だ。
岩稜コースとはいえ、大半なだらかな縦走路のアップダウンで思ったよりはやく間の岳山頂に到着する。ここがピークだという程目立つピークはなく、どっしりとした山容にあった広々とした山頂部といった感覚だ。それでもこの山が奥穂高岳につぐ日本第4位の高峰だ。ここの展望もすばらしい。西農鳥・農鳥も間近だ。山頂部の南端に移動すると農鳥との鞍部に赤い屋根の農鳥小屋が俯瞰できる。最低鞍部との高度差が結構ある(約376メートル)。
白峰山脈から赤石山脈へ転ずると、塩見岳の坊主頭が真っ先に飛び込んでくる。仙塩尾根をたどりあの頂を踏むのはいつの日か。その背後に控える荒川三山、赤石岳、聖岳、光岳にはいつ近づけるのか。南アルプスのスケールの大きさは並大抵ではない。
広い間ノ岳山頂部をあちこち移動して雄大な景観を愉しんだ後、後ろ髪をひかれる思いで、間の岳から北岳山荘へと引き返す。帰り道は、目をあげればいつでもスッキリした北岳が眺められる。
北岳山荘は今回の山旅で最も設備が整い、規模も大きい山小屋だ。北アルプスの8000円以上と比べると安いのだが、南アルプスでは一番高く一泊二食付きで6700円だ。この日は、入り口の黒板に『布団一枚に一人で泊まれます』とある。 高校総体のスタッフ数十名も宿泊したが、この山荘にしては比較的すいていた。かきいれどきには、布団一枚に三人との話だ。夜はフカフカの敷き布団に毛布一枚でも暑いくらいだ。食事は、五、六回に分けた交替制だ。夕食は肉の煮込みや野菜、オレンジ一切れもついている。トイレは水洗らしい。
第四日8月23日 累計標高差:1480メートル
稜線からすこし降りた、がっちりとした造りのこの山小屋の中からはよくわからないが、外の風が強いらしい。館内放送で『風が強いので、一度小屋の近くの稜線に出て、大丈夫だと思う人は出発ください。しばらく、出発を見合わせた方がよいでしょう。日の出とともに風が弱くなる時があります』と伝えている。4時半からの朝食に食堂の前に行列ができている。
北岳山荘から八本歯のコルへのトラバース道をすすむ。八本歯の頭越えに朝日がのぼりはじめる。正面の北岳は強い西風で傘雲がへばりついている。吊尾根分岐の鞍部を勢いよくガスが乗越していく。トラバース上の微妙なバランスを必要とするハシゴや鎖場あたりを強風がまっている。 東南斜面はピンクや黄色の高山植物がこの時期でも開花しているが、ゆっくり鑑賞する余裕がない。帽子を何度もとばされる。帽子の留具をつけているが、思わず片手で押さえて、バランスを崩しそうになったりした。強風の八本歯のコルを降りたほとんど風のないあたりでやっと小休止をとる。
ここからは大樺沢の長い急な歩きにくい斜面になる。膝を痛めたくないと今回用意したステッキを取り出す。右膝をかばうようにゆっくり下っていく。ザックの中には膝用のサポーターもしのばせてある。左手バットレスからの落石がちょっと不安だか、落石注意といってもどうしようもないだろう。止まらずにゆっくり下っていく。岩が砕けたザレが下りづらい。
正面右手に鳳凰地蔵岳のオベリスクがアカヌケサワの頭の稜線越えに見える。地形図上では二俣のやや上部までは見える計算になる。実地に確認しようと時々目をむける。二俣の上部、高低差にして数十メートル、標高約2250メートル付近で識別できなくなり、ほぼ計算どおりだ。
二俣からの下りやはり暑い。沢山の登山パーティに出会う。主体は中高年登山者だ。おばさん達もせっせと登っている。疲れてきたのか、下りの足さばきがだんだん乱雑になる。御池小屋への分岐で休む。針葉樹林を吹き抜ける風が涼しい。御池コースから高校総体のスタッフが女子高校の選手をおぶって降りてきた。外傷はなさそう。病気か。 数人で大変な労力をかけて、一歩一歩確実な歩調であの急坂を降りてきた。
ゆっくり休憩したあと、気をひきしめて最後の下りにむかう。
<気づいたこと> −物忘れ: テルモス(御池小屋にて使用、肩の小屋にて無いことに気づく) タオル(肩の小屋にて朝出発にまぎれて紛失) −寝る時のスペア・スボンがほしい。持参した薄手フリース・スペア・シャツは快適 −膝への負担を考えれば体重を5キロはスリムにする必要あり −日焼け対策として帽子、襟付シャツ、日焼けどめクリーム、リップ・スティック、ウエット・ティ シュ、UVコロン有効 <行動記録> 8月20日(火) 高曇り、やや涼しい 7時 横浜市自宅発 8時 府中ICより中央高速 甲府昭和IC 南アルプス街道 12時 広河原(標高1520メートル)着 13時 広河原発 13時26分 御池小屋分岐着 13時30分 同上発 14時19分 御池小屋への尾根にて休憩 14時29分 同上発 15時15分 御池小屋(2240)着 1泊2食6500円 8月21日(水) 晴れ 4時10分 起床 5時06分 御池小屋発 6時 ダケカンバの樹林にて休憩 6時10分 同上発 6時55分 小太郎尾根分岐(2840)着 7時10負 同上発 8時05分 小太郎尾根にて休憩 8時15分 同上発 8時45分 小太郎山(2725)着 9時25分 同上発 10時23分 小太郎尾根にて休憩 10時33分 同上発 11時09分 小太郎尾分岐着 11時19分 同上発 11時50分 肩の小屋(3000)着 1泊2食6500円 ウドン900円 牛乳250円 8月22日(木) 晴れ 4時15分 起床 5時10分頃 日の出 6時05分 肩の小屋発 6時38分 北岳(3192)着 6時53分 同上発 7時45分 北岳山荘(2900)横着 7時53分 同上発 8時22分 中白峰(3055)着 8時30分 同上発 9時20分 間ノ岳(3189)着 10時 同上発 10時47分 中白峰着 10時52分 同上発 11時16分 北岳山荘着 1泊2食6700円 8月23日(金) 晴れ、風強 4時 起床 5時10分 北岳山荘発 6時12分 八本歯野コル(2900)着 トラバース道、吊尾根強風 6時20分 同上発 6時39分 八本歯尾根取りつきにて休憩 6時44分 同上発 ステッキ使用開始 7時40分 大樺沢二俣(2220)着 7時51分 同上発 9時10分 御池小屋分岐着 9時23分 同上発 9時42分 広河原着 10時15分頃 同上発 11時 芦安村白峰会館着 入浴550円・昼食 12時 同上発 14時 泉水着 15時 同上発 富士霊園・246・東名高速(大井松田〜厚木)・246 19時 横浜市自宅着 (1996年8月25日記)